2017年04月06日

神社・仏閣・レゾンデートル

京都という街は本当に油断のならないところで、少し歩けば史跡にぶつかる。道端の小さな社に「明智光秀の塚」だの「鵺退治の舞台」だのとあっては、足を止めざるを得ない。
昨日もハマカワフミエとちょっと足を伸ばして東山方面に歩いたが、空也像やら平清盛像やら、もう教科書に出てくるそのまんまの姿で目の前に現れるのだ。なんとなしに覗いた神社仏閣の縁起が「聖徳太子由来」だったり「桓武天皇ゆかりの〜」なのだ。

冨坂の言を借りると、「戦国武将や幕末の志士のリアリティはガンダルフと同じ」なのである。我々からしたら書物をはじめとする物語(歴史だって物語に過ぎない)を通してしか理解できない以上、歴史上の偉人とフィクションの登場人物との境は曖昧である。更に言えば、その人物の業績が大きければ大きいほど、同時にフィクション値も上がる。文字通り"伝説"になってしまう。
しかしその業績、とくに建造物や像など"実体"を伴う形で眼前に出されると、そのリアリティが一気に引き上げられるのだ。「あ、いたんだ」という、驚きに近い実感。物語という"情報"でしかなかった存在が実像を結ぶ、そんな"説得力"があるのだ。
とくに"実体化"の効果が大きいのが、墓所や首塚だ。「死によって生を実感する」とかいう表現には気恥ずかしさを覚えるが、まあそういうことた。天下の梟雄、松永久秀の墓に手を合わせたときなど、内心その虚と実の落差にくらくらして、興奮していた。
この「実在する、という感動」は、実はおれの演劇の原体験にも繋がっている。何度か書いているが、もともと小説家としてのつかこうへいが好きで、そこから戯曲を読み漁り、その後ようやく劇場に観に行ったのだ。『飛龍伝』を舞台で観るのは初めてだったが、話の内容はもとより台詞レベルで頭に入っている状態で観たわけだが、そのときの感動が正にそれで、「うわ、こういうことだったんだ!」という「今まで想像でしかなかったものが存在すること」、「在ることの理解」から生まれる興奮が、主演の広末涼子のあまりの可愛さとともに記憶されている。
またプロレスでもこれはよく覚える感覚で、初めて武藤敬司や天龍源一郎などいわゆる"レジェンドレスラー"を生で観たときのあのオーラというか圧力みたいなものにも、似たものがある。語られ続ける数々の豪快なエピソードや伝説の試合を当時の映像や文献で追って、というのも共通している。
更に遡ればおれの映画原体験も『ジュラシック・パーク』で「図鑑で見たアイツやアイツがうごいてるやがる!」だったわけで、この「想像で補っていたものの実体化」は、おれにとって中々に大きいみたいなのだ。

で、まあなんで京都にいるかっていうとそれは芝居しに来たからであって、結局その話になっちゃうのだけど。

「初演の映像観て来ました」とか「生で観れて嬉しいです」とか、そういう感想貰うのですよ。ありがたいことに。
だからもしかすると、おれにとって大きなテーマである「実在するという、感動」をね、共有できてるんじゃないか、と思うのです。しかも自分が深く関わる作品で。そしてこれは凄いことだと思うのです。

原点の共有。点と点が線になっていく快感。 

だから強調しておくけど、演劇の「ライヴであるという魅力」と「映像記録のアーカイヴと公開」は矛盾しない。むしろ、それは導線であるとともに増幅装置だと思っている。
また、初演と『2.0』を観比べると解るのだけど、今回初演では「描けなかった」シーンが追加されている。それもまた、「想像でしかなかったものの実体化」であり、だからこその再演でなく『2.0』なのだ。

で、我々は劇団なんで。実体化するには上演するしかないわけで。上演って大変で。本当に大変で。
でもまああの手のこの手を使って実体化して実在させんのが劇団なんで、今夜も存在してきます。

さあ、共有しようぜ。










posted by 淺越岳人 at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 芝居 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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